芭蕉塚の建立

 明治の中頃、境内に「物云へば唇寒し秋の風」の芭蕉句碑が建てられ、芭蕉塚と呼んでいます。当時の軍国主義化の社会の動きを愁えて建てられたものであり、芭蕉を敬慕する至情の表れとなっています。
 天和二年(1682)駒込大円寺から出た火により、本郷・神田・日本橋・浅草・深川にまで延焼して、芭蕉庵も焼け出されました。生活に困窮した芭蕉は、甲州に身を落ちつける決心をしました。芭蕉が2回甲斐への入ったことは、記録により明らかですが、勝沼の地に足跡を印したかどうかは、谷村・初狩に来ていたことや、木曽から塩尻・諏訪を経て甲斐に入ったとすると勝沼の地をも通過したことになるかもしれないことなどから想像してみるより外はありません。勝沼にはこの地においての芭蕉吟として「勝沼や馬士(まご)は葡萄を喰ながら」という句が語り伝えられています。

芭蕉の句碑
芭蕉の句碑
山門
山門
親鸞聖人の御像
親鸞聖人の御像
黒松
黒松